高知県香美市。ここにある「やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム」は、ただの子供向け施設ではありませんでした。実際に訪れてみると、そこにあったのは、戦争、挫折、再起、そして晩年の愛と献身が詰まった“やなせたかし”という一人の人間の生き様でした。
高知県香北町へ。記念館へのアクセスと第一印象
高知自動車道・南国ICから車で約30分、のどかな山あいの町にあるのが「やなせたかし記念館」です。カラフルで可愛らしい外観からは想像できないほど、展示内容は深く、そして大人の心に響くものばかりでした。
館内では、初代アンパンマンの原画や、やなせ氏の手書きの詩、そして戦争体験とその後の葛藤が記録された資料の数々が展示されています。
アンパンマン誕生の裏にあった「戦争体験」と「疑問」
やなせたかし(本名:柳瀬 嵩)は1919年、東京生まれ。幼少期に父を亡くし、母の再婚もあって高知県南国市で育ちました。戦争では中国戦線に出征し、暗号や宣撫工作を担当。戦闘経験はなかったものの、戦中に信じていた「正義」が敗戦とともに崩れ去った経験から、「本当の正義とは何か?」という根源的な疑問を抱くようになります。
この経験が、「困っている人を助けるのが正義」というアンパンマンの根本理念につながっているのです。
50歳で初めて描いた「アンパンマン」
やなせ氏がアンパンマンを描いたのは、50歳を過ぎてから。雑誌『詩とメルヘン』で初登場した当時のアンパンマンは、今とは異なり、年老いたパン職人のような姿で、自分の顔をちぎって空腹の人々に与えるという設定でした。
その原作は、まさに「自己犠牲によって他人を救う」という哲学を絵本に昇華させたものであり、決して“子供向け”だけでは語れない深いテーマを持っています。

三越を退社、34歳からの“再挑戦”
やなせ氏は東京高等工芸学校を卒業後、田辺製薬、そして三越の宣伝部でグラフィックデザインに携わりました。「三越の包装紙」には、彼の手がけたレタリングが今でも使われています。
34歳で三越を退社し漫画家として独立したものの、ストーリー漫画全盛期の中でナンセンス漫画は下火に。以降30年近く、売れない日々が続きました。その間、ラジオ、舞台美術、作詞など何でもこなす“便利屋”として生計を立てます。
それでも筆を止めず、60歳を超えてアンパンマンがテレビアニメ化されると、一気に日本中の子供たちのヒーローとなりました。
「何のために生まれて、何をして生きるのか」
これは『アンパンマンのマーチ』の一節であり、やなせ氏の人生そのものを象徴する言葉でもあります。彼は絵本作家、漫画家、詩人、作詞家として、常に「人を喜ばせたい」という思いを持ち続けていました。
「人を笑顔にすることが、自分の使命」
晩年も体調を崩しながら講演やチャリティに力を注ぎ、2011年の東日本大震災の際には、引退を撤回して自らの歌やイラストで被災者を励ましました。

「94年の人生で最後に辿り着いたのは、“優しさ”だった」
晩年には「オイドル(老いドル)」と自称し、陽気に振る舞いながらも、腸閉塞、膵臓癌、心不全など多くの病気と闘い続けました。それでも「笑って死にたい」と語り、最後の最後まで「人を喜ばせる」ことを選んだのです。
その生き方は、まさに“アンパンマンそのもの”。
記念館は、子どもよりも「大人こそ訪れるべき場所」
アンパンマンという存在を、ただの子供向けキャラクターだと思っていた自分が恥ずかしくなるほど、やなせたかし記念館は“哲学の場”でした。
「正義ってなに?」「生きるってどういうこと?」——そんな問いに、子どもの視点から改めて向き合わせてくれる空間です。
まとめ|やなせたかし記念館で「自分の生き方」を見つめ直す
訪問を終えて私が強く感じたのは、「この記念館は子どものためではなく、大人が行くべき場所だ」ということ。特に、人生に迷ったときや、自分の生き方を見直したいときに、ここに来れば“アンパンマンの原点=愛と勇気”が、そっと背中を押してくれるかもしれません。
「何のために生まれて、何をして生きるのか」
その答えは、アンパンマンの顔ではなく、やなせたかしの人生にあるのかもしれません。



コメント